Text Box: 年報29号

2005年4月-2006年3月

2006年6月発行

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Text Box: エドモントンのオーロラ

 

Text Box: エドモントン地区日本人コミュニティスクール
Metro Edmonton Japanese Community School

 

 


 

 

 

エドモントン地区日本人コミュニティスクール

 

2005年度 年報 第29号

 

目次

                         

 

あいさつ・・・在カルガリー日本国総領事 堀江 副武  1

 

2005年度役員会の活動報告・・・後援会会長 大沢 誠  2

 

次の世代のために・・・校長 大木 早苗   4

 

2005年度会計報告・・・会計 松本 苑子  9

 

2005年度コミュニティスクールの歩み・・・事務係 ダンウォルド 節子  10

 

エドモントン地区日本人コミュニティスクールのビジョン  15

  

子供達はえらい!!・・・宿田 美環子  16

  

四月の日向にて・・・賀川 きよ   17

 

エドモントン補習校の皆様・・・中野 早苗  19  

 

バーバパパ・・・川本 紀子   20

 

娘の宿題?私の宿題!・・・近藤 玲   21

 

わすれんぼう大将・・・渡辺 京子   23

 

日本語学校の魅力・・・ラムジー 妙子   24

 

A Gaijin Perspective・・・Steve Hill   26

 

編集・校正  大木 早苗・小林 麗


御挨拶

在カルガリー日本国総領事 堀江 副武

 

 2006年4月7日に行われましたエドモントン地区日本人コミュニティ・スクールの入学式には出席できず、代わりに当館の館員が出席させて頂きました。同人の話によれば、小学1年生として入学される方が15名と大勢いらっしゃるとのことでしたが、これを聞いて私はエドモントン補習授業校の存在価値がますます高まっていくと感じました。これも異なった環境の中で地道な日本語教育の実施と補習授業校の運営に当たってこられた大木校長先生を始めとする諸先生方及び大沢後援会会長を始めとする事務局の皆様のご尽力の賜物だと思います。

 エドモントン地区日本人コミュニティ・スクールは、両親のどちらかが日本人である方々の子弟だけではなく、日本語及び日本文化に興味を持っておられるカナダ人の子弟も一緒に学んでおり、その意味ではエドモントンでの日本教育の一翼を担っています。またカナダは日本と同様に民主主義、自由主義という共通の価値観を有する大切なパートナーであり、カナダの人々との相互理解をより深めていく交流の場としての補習授業校の役割は大変大きなものです。ですから昨年度よりも児童生徒数が増えているという状況については非常に喜ばしいことと思っております。

 このように補習授業校が発展していく一方で、その運営は非常に厳しいものと聞いております。アルバータ州の経済発展による地価上昇に伴う補習授業校の教室借料及び授業料の値上げや光熱費の増加は大きな問題です。しかしながら日本国政府も財政再建のための予算削減等厳しい環境にあり、総領事館として皆様が満足できる支援が十分に出来なくなることもあるかもしれませんが、我々として出来る限りのことをしていくつもりです。

 在エドモントン総領事館を廃止し、カルガリーに総領事館を新設して一年が過ぎました。皆さんが日本の言葉や文化を元気に学んでいる姿を直接見る機会に恵まれず、非常に残念に思いますが、私達は皆さんがこれからも安心してエドモントンで学ぶことが出来るよう支援していきたいと思います。

 今年度限りでこの学校の校長を辞される大木先生には、長い間精力的かつ献身的に指導に当たってこられた熱意に対して感謝したいと思います。また新しく校長になられる常田先生には引き続き同校の発展のためにご活躍頂きたいと思います。

 


2005年度役員会活動報告

後援会会長 大沢 誠

 

今年度の主な役員活動は例年通り運動会、ヘリテージフェスティバル、学芸会、弁論大会と、久しぶりに復活した課外授業の企画でした。また今後の学校のあり方を見据えて学校機構の見直しを進めてまいりました。年度末には新学校機構のブループリントが出来あがり、試用期間をおいて2006年度実施の予定となりました。初年度にはいろいろと改善点が出てくるかと思いますが皆で協力して解決していきましょう。

5月に行われた課外授業は勉強以外の日本語使用を目的として、Ò牛の達人Óと称して大場先生のご好意によりアルバータ大学の農場見学を実施しました。日本語の説明は素晴らしく勉強になったものと思います。初めてみる牛の生態は大変興味をそそるものであり生徒、会員の反応も大変良く大成功に終わることが出来ました。6月の運動会は日系人会との共同開催という形で行われ、日本語学校はじめ日系人会会員の多くの方の参加を得られ盛大なものとなりました。昼食には特大バーベキューセットによるハンバーガー、ホットドッグの登場となり旺盛な食欲を満たしてくれました。昨年と同様に楽しい運動会でした。11月の学芸会では恒例となった各学年父兄による学芸会準備をいたしました。舞台背景画、作りものの準備と当日の舞台セッティングにそれぞれの学年の父兄が活躍しました。自分の子供の舞台の手伝いとあってどの父兄ともかなり力が入っていたように見えました。学芸会は全会員参加の行事形態として日本語学校理想形になってきたと思います。いかがでしたか?

カジノのファンドレージング活動による財政改善によって今まで出来なかったことが実現可能となってきました。2006年度はサマーキャンプを企画しております。企画委員を中心に魅力的な内容、スケジュールを練っております。お楽しみに。

1年間取り組んでまいりました図書のコンピューター化が2005年4月から実現されました。図書の仕事が想像以上に効率化され本の貸し出し、管理作業をスムースに進められるようになりました。ご存知の通りこの1年大きな問題もなく使用されています。実現に貢献された大木先生、清水さんに感謝申し上げます。また図書のラベル貼りでは多くの会員の協力を得てハイスピードでこなすことが出来ました。4月オープンに間に合うことが出来ましたのも皆様のご協力のおかげです。御礼申し上げます。

さて、年度の始め「全員参加の学校運営」を会長としてのゴールにしました。皆様ご存知の通り日本語学校は役員会を中心として会員にて運営されております。学芸会で代表されます全員参加型の行事、また運営への全員の意見反映、意見を出しやすい雰囲気作りに力を注いできました。完全に達成されたとは言えませんが良い方向へ向かっていることを確信しております。2006年度からは新しい体制での出発となりますが今のモメンタムを崩さず今後とも会員の皆様のご協力をお願いいたします。

今年度のリチャード校との関係に関しては、リチャード校側のご理解と生徒、先生方、会員の皆様のご協力により非常に良好でした。今年度終わりにリチャード校から長期方針変更を伝えられ今後の校舎借用の先行きが少し不透明になってまいりましたが、最後まで良い関係を続けられるように今まで通りご協力をお願いいたします。日本語学校の今後の方針に関してはスクールニュース等にてお知らせしていきます。

今年度も行事、出来事、多くの討議事項で多忙な役員会でしたが会員の皆様、先生方をはじめ日本国総領事館、日系人会、海外子女教育振興財団、多数の無償ボランティアなど学校を取り巻く多くの方々のご協力、ご支援のもとに学校運営を円滑に行うことが出来ました。本校を支えてくださった関係者の皆様のご協力に感謝いたします。今年度を最後に大木校長先生、賀川先生、宿田先生、中野先生が退職されました。皆様の今後の活躍とご発展をお祈りいたします。また5年間の間ボランティアとして図書を手伝っていただいた石田さんも卒業です。この場を借りてお礼を申し上げます。

 

 


次の世代のために

校長 大木 早苗

 

 2005年度も教育目標に従って各学年の1年間の教育活動を完了しました。教師の皆様、役員や保護者の皆様ありがとうございました。そして2006年3月に行われた終業式は私にとってより思い出深い式になりました。それは私は学校が始まった1977年から1990年までと1996年から2006年3月までの通算24年間、学校で教師と校長をしましたが、この3月で退職したからです。生徒の皆さんに在学証書や皆勤賞をお渡しするのが最後になりました。どの生徒の顔もしっかりと見て、一人一人の生徒の将来を想像しながら証書を渡しました。証書を受けるときの晴れ晴れとした生徒の顔は本当にすばらしく感激いたします。証書を渡すときにちょっと「頑張りましたね」とか、「4月からもまた勉強しましょう」とか声をかけるのですが、生徒は皆にっこりとうなずいて達成感に満足しているのがわかります。

 今年は3名の生徒が中学3年を終了しました。3人ともカナダ生まれで、母親は日本から来たけれど父親は日本人でないという国際結婚家庭の生徒でした。どの生徒もどの家庭でも学校の方針と指導に従って、それぞれ必要なときに適切な助言を受けながら勉強を続けることが出来たことが、中学3年を終了するという成果になったそうです。日本人であるお母様の直接の努力は目に見えてわかりますが、母子が日本語の勉強をすることへのお父様からの協力や応援があったからこそ達成できたことでしょう。家族ぐるみで本当に良くなさったと賞賛いたします。

 今まで学校が経験を通してわかっていることは、家庭環境から区分すると次のグループの生徒は、生徒と保護者が学校の方針に従って学習すれば中学3年まで終了できることです。

A.     両親共が日本人の家庭で、生徒は日本の学校で学んだ事がある。

B.     両親共が日本人ではない家庭で、生徒は日本の学校で小学3年生以上まで学んだ事がある。

C.     両親共が日本人の家庭で、生徒は日本の学校で学んだ事がほとんどない。

D.     両親の一人が日本人の家庭で、生徒は日本の学校で学んだ事がほとんどない。

 そのほかのグループの生徒には、まだ私たちの学校で中学3年を終了した生徒はいませんが、いま勉強中の生徒がいるグループは

E.     両親共が日本人ではない家庭で、生徒は日本の学校で学んだ事がないか、または日本の学校で学んだ事があっても小学3年生以下の学年までしか学ばなかった家庭の生徒。

F.     成人も含めて高校以上の年齢の生徒で、本人の意思で日本語を勉強している生徒。

 私たちの学校でどこまで日本語の勉強をするかについては、それぞれの生徒や家庭の目標がありますから、中学3年を終了するまで学校に来るかどうかは、それぞれ一人一人が決める目標になります。しかし私たちの学校が中学3年まで指導する力があるかないかは学校の指標として考えてよいと思います。学校の創設から10年ぐらいの間に何ができていたかを年報を参考にしながら思い返すと、AとBのグループの生徒は中学3年まで進んでいましたが、Cのグループの生徒が高学年から中学3年へと進むのに大変苦労していました。そのころは、Cのグループの生徒が高学年までしっかりと勉強できるには、とにかく学校と保護者の協力で小学3年の力をつけてやらないとその先の勉強が続けられない、と励ましあっていました。また小学1年生から日本語の勉強を始めるのでは遅すぎることがわかり、1984年に年長組を始めました。創設から10-20年の間に教育はさらに工夫されてCのグループの生徒で中学3年を終了する生徒が増えてきました。

 その次に注目したのはDのグループの生徒です。このグループがCと違うのは、家庭で日本語を話すことが難しいことです。でも低年齢の生徒が私たちの学校で日本語の勉強が出来るためには家庭で日本語をどのくらい話せるかが大切な要素になっています。年長組が出来たころから、特にDのグループの保護者に、家庭での日本語の指導の大切さをお知らせし、どうしたらよいかを共に学びあいました。その成果がこの7年ほどに見られるDの生徒が中学3年を修了していることに現れているのでしょう。さらに保護者が中心になって1999年には年長組に入る前の子供のための日本語のプレイスクールが出発しました。ところがプレイスクールをしてみると2-3歳児と4歳児では発達程度が違うことがわかり、また年少の子供で特にDのグループの生徒が増えるに従って4歳児も学校の組織の中で指導することの効果が認識されました。それで、2000年には年中組が日本語教育の一環として正式にプログラムに加わりました。年中組が出来た一番の効果は、将来生徒が日本語を学べるようになるには保護者が家庭で何をしたらよいかを、子供が小さいときから指導できるようになったことです。

 学校の目標と方針は創立当時から変わっていません。でも、目標をどこまで達成できるかは変わっています。毎年達成の輪郭が広がっているといえます。これが今まで学校を支え、進めてきた人たちが作り上げた伝統なのでしょう。では何が良い要素となってこのように学校が創立当時の目標を軸にして今の伝統が出来てきたのでしょうか?

 先ずあげられるのが、会則と校則に支えられている学校のビジョンです。皆がビジョンに同意して、細かい運営事項を決めるときでも教育のやり方を決めるときでも、常にビジョンに照らし合わせてどうしたらよいか決めてきました。これからもこのビジョンを見失わないで学校の運営が進められていくものと思います。そして、創立1年目からこのように長期にわたってゆるぎなく学校を支え続けられる会則・校則・ビジョンを作り上げた創立者の方々のへのお礼の気持ちを忘れることができません。

 次は、私たちの学校はその名前のようにÒコミュニティÓスクールだということをしっかり考えてきたことです。AからFまでのグループの生徒は誰もが日本語の勉強が出来るように、私たちは学校の目標と方針の枠内で何が出来るか一生懸命考えてきました。場合によっては私たちの学校で学ぶことが最良ではないと判断して別の勉強法を提案したこともあります。そしてAからFまでのグループみんなの勉強を考えることがそれぞれのグループの勉強をよりよくしていることを確信しています。学校によっては、Aグループの生徒だけを対象にしているところもありますし、B,C,Dのグループの生徒だけのところもあります。でも良く考えてみると、特にカナダのような多文化・多言語を尊重する国では、どのグループの生徒も対象にしていることが、とても大事だとわかります。それで思い出しましたが、1時期私たちはエドモントンの外国語教育をしている私たちのような学校の振興会に入って他の言語を教えている学校と交流がありました。学校に余裕があったらまたそういう会に参加して、さらにÒコミュニティÓスクールとしてカナダ社会へ貢献することも考えてほしいです。エドモントンでは50校近くのÒコミュニティÓスクールがいろいろな外国語を継承言語として教えています。

 もう一つは、保護者も教師も学校運営や教育には素人だということを常に考えて、素人が学校を運営していくにはどうしたらよいか、素人が教育をしていくにはどうしたらよいかを出発点に考えてきたことでしょう。教育面では、教師は専門家によって書かれた文献を読んで教育一般に関する勉強を続ける、専門家の話を聞く機会を設ける、研修に参加する、良い例を学びあう、私たちの学校での経験でよかったことはどんどん実行する、失敗したことは繰り返さない、などが挙げられます。このごろはWeb siteを使っていろいろな試みや例を知ることも出来ます。運営面では、学校の経験を良く生かすのがよいでしょう。そのために過去28年の年報は何よりの良い資料です。私も今この原稿を書くために何冊かめくってみましたが、本当に価値あることがたくさん記録されています。役員の皆様是非今までの年報を読まれることをおすすめします。このように書くと役員も教師もボランティアの性格が強い学校なのに、あれもこれも教師や役員に要求するのは大変だと思われますが、ボランティアになることによってそういう責任が派生するし、今までも大勢の方がそうしてきたことが今の学校をつくっていることを思い起こさなければなりません。

 最後に学校の伝統ができるにあたっては、過去29年間に学校に関係した大勢の保護者や先生、周りで支えてくださった総領事館の方々、外務省、文部科学省の諸機関、海外子女教育、カナダやアルバータ州やエドモントンの教育機関、アルバータ大学の日本語関係の先生方、日本から指導に来てくださった先生方、他の補習校の先生方など、ちょっとあげてみても数え切れない人々の貢献があったことが忘れられません。これからも学校を支えてくださるいろいろは機関の方にお世話になって行くのでお礼の気持ちを持ち続けましょう。

 学校はこのように日本語教育をしてきましたが、将来へ向けてどんなことが出来るのでしょうか?どうしたら、日本語と英語のバイリンガル、または多くの家庭がそうであるように、「日本語と英語」プラス中国語・フランス語・その他の言語との3つ以上の言葉のマルティリンガルを推進できるのでしょうか?今まであまり意識的にそのような話し合いをしたり、勉強をしたりできませんでした。きっとどのグループの生徒をもつ家庭でもバイリンガルやマルティリンガルが何なのかを知識として知り、その要素をしっかり把握できればもっと効果的に指導が出来るでしょう。

 それから、今まで良く出来なかったことは Risk Managementです。学校の運営が支障なく行われるためにいつも先をみてリスクを管理していかなければなりません。学校にとって本当に幸いなことですが、今まで生徒の人身事故が起ったり、学校を閉めなければならなかったり、教師がお願いできなかったりというような事態はありませんでした。ここで、学校を運営していくためのリスクを挙げて、それぞれのリスクへの対策を明らかにして、計画に応じて実行に移していくのが良いと思います。

 今の学校の役員や保護者を見ると本当に力がある方が大勢いらっしゃいます。教師会のメンバーも実力がある方々である上に常田先生というすばらしい校長を得て安定しよく計画された教育が進められていかれることがわかります。このような条件が整ったときに学校の組織をさらにしっかりさせ、将来へ備えられたらとてもよいです。私もそういう学校に力があるときに校長の交代をしていただき、学校もこのような変化に対応できる組織をつくられて本当に将来のためによい体制が出来たと喜んでいます。そして退職後のこれからはエドモントンの日本人コミュニティの一員として学校の発展を応援して行きたいと思っております。
2005年度 エドモントン地区日本人コミュニティスクール会計報告

会計   松本 苑子

 


2005年度コミュニティスクールの歩み

事務係 ダンウォルド 節子

 

<入学式・始業式>2005年4月8日(金)

   総数52名の生徒が登録した(新幼稚科年中組5名、年長組12名、小学1年生4名が入園入学した)

   幼稚科年長組が2学級編成となり、小学6年・中学2年を除く幼稚科年中組から中学3年までの10学級が編成された。

   今年度も引き続き、プレイスクールが父母有志の手で運営された。

<2005年度年次総会>4月8日(金)

会長:             大沢 誠

副会長:           大場 真人

第二副会長:       金 達也

会計:             松本 苑子

書記:             フェドロー 美恵子

評議員:           元田 幸子、ヒル 厚子、メーガン・ジョーンズ

図書係:           清水 理予子

会計係:           松本 苑子

事務係:           ダンウォルド 節子

<図書のコンピューター化>4月22日(金)

  長年の懸案であった図書のコンピューター化が実現し、この日始動した。

<学級懇談会>4月29日(金)- 5月8日(金)

  一年間の各クラスの方針を伝え、父母との話し合いをもった。

<課外授業>5月28日(土)

   「牛の達人になるぞー!」なる課外授業がアルバータ大学研究農場で行われた。年中組以上のクラスを対象に参加者を募り、農場施設の見学と乳しぼりの体験で好評を博した。

<ピクニック運動会>6月11日(土)

   例年通りエドモントン日系人会館で開催された。

   心配されていた雨にも見舞われず、たくさんの参加者と楽しいひとときが過ごせ、お互いの親睦を深めることができた。

<一学期終業>6月24日(金)

<焼き鳥作り>7月24日(土)

   ヘリテージフェスティバルの準備の一環として後援会、日系人会会員を中心に焼き鳥を作った。

<北米西部地区現地採用講師研修会> 7月29日(金)- 31日(日)

   ポートオブサクラメント補習校で開催され、本校からは2名(中野・岡本両先生)が参加した。

<ヘリテージフェスティバル> 7月30日(土)-  8月1日(月)

   好天候のもと、大勢のボランティアの手によって運営され、大盛況で終えることができた。

<二学期始業>9月9日(金)

  生徒数49名。生徒の増員で、小学2年がチーム指導方式で2学級に編成された。

<学年会> 9月16日(金)・23日(金)

   父母間のコミュニケーションの場として、各学年毎に父母、役員会代表、校長が懇談した。

   学年毎に父母代表が選出された。

<巡回指導> 9月30日(金)

   文部科学省から3名の派遣指導の先生を迎え、教師の研修、模範授業、父母との懇談会をもった。

<みんなの作品集夏号>10月28日(金)

  クラス文集として各クラスで作成し、発行した。

<学芸会>11月26日(土)

  幼稚科年中組から中学3年まで参加し、プレイスクールの子供たちも発表した。

  各学年から選ばれた父母代表を中心に、準備・運営された。

 

             プログラム

       1. はじめの言葉                                    伊藤 勇希

       2. あいさつ                                        後援会会長

       3. オペレッタ「動物たちのクリスマスは大さわぎ」       幼稚科年長組

       4. げき「くりすますぷれぜんと」                      幼稚科年長組

       5. げき「ガラガラポン」                             幼稚科年中組

       6. げき「サーカス学校へ」                           小学1年生

       7. げき「あそび、買います」                         小学2年生

    ―― 合唱 ――                                  保護者会

       8. げき「三年とうげ」                               小学3年生

       9. コント「じゅげむ」                               小学4年生

      10. げき「毒チョコ?」                               小学5年生

    11. げき「3びきのやぎのがらがらどん」                プレイスクール

      12. コント「トル」                                  中学1年生

      13. げき「J太郎の最悪のラッキー・デー」              中学3年生

      14. おわりの言葉                                    陳 ジェミィ

 

<個人懇談会> 12月2日(金)- 16日(金)

  各学級で日頃のようす及び進級に関する話し合いをした。

<二学期終業>12月16日(金)           

<三学期始業>1月13日(金)

   生徒数55名。

<書き初め>1月27日(金)

   岡本浩子先生の指導で、小学1年から中学3年までの生徒が参加。

   作品は3月発行の作品集に収めた。

<授業参観> 2月3日(金)

   学校でどのような授業が行われているのか、生徒がどのように学習しているのかを父母に知ってもらう趣旨で企画された。

<弁論大会>3月10日(金)

小学5年、中学1年、中学3年の計10名が参加した。

最優秀賞:ラムジー アイリーン(中3)          「大切な時間」

優秀賞: 陳 ジェイミィ(中3)                「ひま?ホビーをやれば」

       ザン ジェニー(小5)                「私のダイエット失敗談」    

<一日入園・一日入学>3月17日(金)

  年中組9名、年長組5名、1年生15名の入園・入学希望者を対象に行った。


<みんなの作品集>3月24日(金)

全校文集として編集され、各生徒に配布した。

<終業式>3月24日(金)

  大木校長から58名の生徒に在学証書が授与された。   

  17名の生徒に皆勤賞が贈られた。

   3名の生徒が中学3年を終了した。

 

<2005年度教師・生徒名簿>

学級/教師

生徒

漢字名

年中組

山田 眞理

こばやし まや

小林 真矢

こんどう ゆりあ

近藤 ゆり愛

スタイン ケビン

 

あべ みあ

阿部 みあ

おう ポプラ

スワロー アレック

 

年長組 1

坂口 宗

かわもと さくら

川本

きん かな

金  加奈

フランキウィズ ジェシカ

 

さかぐち かい

坂口 海

もとだ れい

元田 怜

もりた るか

守田 流佳

ロペス みづき

   美づき

ほし まりあ

こんどう さいもん

近藤 才文

年長組 2

井上 眞智子

いとう たいし

伊藤 大志

かいで えりか

開出 恵立佳

マクレーン はな

   葉奈

ヴァン りゅうせい

   流誠

やまだ れな

山田 玲奈

やまもと にこらす

山本 

ますだ りんたろう

増田 麟太郎

こんどう あさひ

近藤 旭

1年生

宿田 美環子

しみず ゆうき

清水 勇樹

こばやし うな

小林 宇奈

ヴァン ゆうひ

   勇飛


年生

中野 早苗

田端 裕美

いとう まりな

伊藤 真理奈

きくち あゆみ

菊地 歩

フェドロー ゆうこ

   優子

まつもと としや

松本 寿弥

たかはし ゆい

高橋 結

わたなべ けんた

渡辺 健太

たきた たまお

滝田 圭央

ジャクソン ジャスミン

 

ウォン ケビン

井戸賀 駿

山添 恵太

   

やまだ   かりん

山田 花鈴

3年生

岡本 あや

おおさわ まりん

大沢 真琳

かいで まや

開出 真与

しみず さら     

清水 紗羅

ジャクソン マーカス  

 

りい   かな

李  賀菜

チェン シェリー

陳  芝萱

ロペス なつみ

   菜つみ

ソン ユンジ

4年生

高橋 澄子(1学期)

島田 圭規(2・3学期)

いとう ゆうき

伊藤 勇希

きん りきぞう

金  力蔵

大場 蒔

 

チャオ アンジェラ

 

リー ドロシー

 

5年生

長倉 由紀子

王 芸蓉

(母 蒋紅)

きくち ひかり

菊地 光

かいで あんな

開出 安和

ザン ジェニー

張  微

マクレーン かい

   海

中学1年

大場 恵子

ジェラード エマ

 

劉 一鳴

(母 王美琪)

中学3年

賀川 きよ

ダンウォルド みお      

   澪

ラムジー アイリーン

 

チェン ジエミイ        

 

 

 

 

エドモントン地区日本人コミュニティ・スクールのビジョン

 

 

   子 供 達 へ

 

 

 あなた達は、かぎりない可能性と才能を持っている。この才能を引き出し、発展させていく一つの機会が、ここに与えられた。

 

 子供達よ!この学校で一生懸命日本語を学べ。又、英語圏に住んでいる利点を活用して、英語と日本語の完全なる使い手に育ってくれ。

 

 そして将来、カナダと日本両文化の理解と人々の融和の上に、さらには、国際平和・人類の為に役立つ人になってもらいたい。

 

 これが、この学校を作った親達のせつない祈りである。

 

 

一九七八年 エドモントン地区日本人コミュニティ・スクール運営委員会


子供達はえらい!!

宿田 美環子

 エドモントン補習校で生徒の皆さんといっしょに学び歩んで二十数年があっという間に過ぎてしまいました。どうしてこうも早く過ぎてしまったのだろうか。それは、たぶん私の毎日が学校を意識しての生活だったからでしょう。週一度三時間のことでしたが、私にとっては有意義な時で、人生に彩を与えてくれました。

 昨年度も四月から一年生の担任として、三名の個性的で活気あふれる生徒と苦楽を共にしてひたすら走り続け、そして三月末、次のクラスに送る時、感動と反省の入り交じった心境で一人一人を見送りました。幼い子供達の体力には金曜日の夜のしかも限られた環境の中での三時間の学習は大変なことだと思います。ある時は、疲れのためにあくびや不平不満も出るだろうし、つまらない授業ではお喋りもしたくなるなど、いろいろな行動が出てくるけれど・・・。

 しかし、賢い子供達は、勉強が必要なこと、重要なことも、親が何を望んでいるかも、よく知っているものです。だから、なんとかかんとか言いながらでも、やるべき時にやるべきことはきちんとやってくれるもので、本当に感心しますし、うれしいものです。また、精神面でも、根気、忍耐、集中の力も知らず知らずのうちに培われていること、感じます。子供にとっては大変なことですが、一年間の苦労の積み重ねが大きな成果と成長になっているのだと思います。

 週一度三時間の日本語学校にとっては、家庭での学習は何よりも大切なもので、その中でも親子の会話はとても大事なものです。楽しい会話の多い家庭ほど、子供の語彙と表現力が豊かです。そして、親子の楽しい語らいは、子供の日ごろのストレスを発散し、安定した心をも育てます。会話をすることによって、知と心が育って知恵となり、よりよい子供に成長していくことでしょう。会話は教育の基本だと、最近つくづく思います。

 どの世界にも、個人差とか個性がある。言語の面でも、得意、不得意があり、教える者にとってはみんないっしょのレベルの方が教えやすい。けれど、そうはいかないから、色々と悩むけれど、結局はその子なりのペースに最善を於してあげるほかはないと。最近の日本の歌に「世界で一つだけの花」というのがあり、その歌詞の一部が

 

       「世界に一つだけの花  一人一人違う種をもつ

        その花を咲かせることだけに  一生懸命になればいい

        小さい花や大きな花  一つとして同じものはないから

        No.1にならなくてもいい  もともと特別なオンリーワン」

 

私も思います。「あなたは特別なオンリーワンなのだから、そのペースが最良なんだね。人それぞれその人に合った花を咲かせるようになっているのだから」と。

 そして、大人達も、いたずらに思い煩うことなく、その時、その場で、最善を尽くして、健全な子供に育ててください。

 

四月の日向にて

賀川 きよ

 このごろ金曜日が近づいてくるとなんだかとても落ち着かない気持ちにさせられます。買い物をしていても、本を読んでいても、コンピューターに向かっていてもとにかく何をしていても誰かから背中を押されているような、ドキドキするようなそんな差し迫った気持ちになるのです。そしてそのたびに、ああそうだったもう宿題は作らなくてもいいんだ。ワークシートも作らなくていいんだ。月案も日案も前期・後期予定表も、教師会に提出するさまざまな書類も作成しなくていいんだと自分に言いきかせます。それでもまだなんとなく納得できないような気がします。ほんとにいいのかな?ほんとに大丈夫なのかな?と。それほど自分の生活のリズムの中にそれらのことがしっかりと刷りこまれてしまっていることに驚いてしまいます。

 エドモントンに住むようになり、まだ小さかった娘を初めて日本語学校に連れて行ったとき、こんなに長い間日本語学校と関わることになろうとは夢にも思いませんでした。

当時のわが家は車一台でドライバーもお父さんただ一人。金曜日の夕方はお父さんが会社から帰ってくるのを待って、ダウンタウンよりかなり北にあった日本語学校まで大変な思いをして(ごぞんじのようにラッシュアワーですし、南の方に住んでいるものですから)通ったものです。子どものお腹がすかないようにおにぎりを作り、家族で仲良く車の中で食べながら走っていたときふと隣を見ると、そこに同じようにみんなでおにぎりにかじりついている友達の車!お互いに親しみをこめて手を振りあったことが思い出されます。

 月日が流れて日本語学校もパークアレン校に移り、さらにウエストブルック校、リチャードシコード校に移りいろんなことがありました。今では学校のカリキュラムがきちんとしているように、組織そのものも行事もほとんど全てのことがきちんと整えられています。

 例えば恒例の6月のピクニックひとつをとっても、今は日系文化会館の施設があるので何も心配せずに(雨の心配さえしなくてもいいなんて!)予定を組めます。でも前はどこの公園でするかがまず問題でしたし、ランドルパークに決まってからはよいスポットを予約するのに一苦労でした。うっかり予約を忘れたりするとどこか別の場所をさがすのにまた大わらわです。やっと場所がなんとかなったと思ったら当日は今にも泣き出しそうな空模様だったりÉÉ。それでも気を取り直してかなりの数の家族が参加して、さてお楽しみのお昼の時間ですよぉと思ったらポツポツポツと小さな雨粒がÉそしてあっという間に辺りはミルク色にけむるような雨のカーテンです。みんな大急ぎで公園内の屋根のあるところへと走りました。何人かのお父さん達が手慣れた様子で火をおこし始めます。いったんお弁当を開き始めたのですがわたしは飲み物を忘れたことに気づき、子どもたちを主人にあずけ傘をさして駐車場まで取りにもどりました。飲み物を抱えて歩き出そうとすると、後ろから声をかけられました。振り向くと不審顔のお巡りさんが立っていました。「こんな雨の中をこんなにたくさんの人がいったいなんの目的で集まっているのか。」と尋ねられました。なるほどこんな雨の中(ついさっき降り始めたばかりとはいえ、辺りもはっきり見えないような状態です。)駐車場には何十台もの車があり、そのくせ人影はまったく見えません。お巡りさんでなくても変だと思ったかもしれませんね。じつは自分たちは日本語学校の関係者で、今朝はかなりの曇り空だったけれど前からの予定のピクニックを楽しみにしている子供たちを連れてお弁当を持って集まったのだ、でもとうとう雨が降ってきて、しょうがないからあっちの(と指をさし)屋根のあるところに集まって火をおこしてみんなでお昼ごはんにしようと思っていたところだ、と、つたない英語で一生懸命説明しますと、「それは気の毒だったね。じゃあ子どもたちと楽しいランチを。あ、でも火の後始末は忘れずにネ。」にっこりしてそう言うと、くるりと回れ右をしてパトカーに乗りこみ走り去りました。今は懐かしい思い出です。

 そういえば最近はありませんが以前は「ゴルフトーナメント」や「スキー大会」などもありました。「ゴルフ」では「ブービー賞」などという不名誉な賞をいただき、「スキー」ではこれまた不名誉な「静御前」などというあだ名をつけられたこともありました。子どもたちは親に似ず「スキー大会」ではそのたびカップをもらって棚に並べていましたっけ。いずれも準備をする役員・父母の方達はかなり大変だったであろうと想像しています。でも大人も子どもも楽しめる行事でとても人気がありました。上手な方はもちろん、へたはへたなりに楽しめるからでしょう。

 以前は本当にいろんなことが混沌としており、学校教育はもちろん組織、役員会、年中行事などみんな教師・役員・父母を問わず頭を付き合わせ知恵や意見を出し合い、手探りで進んできたような気がします。たくさんの人がいろんな形で協力してきました。目立った人も目立たなかった人もいたと思いますが、どの人も日本語学校をささえてきた大切な一人だったと思います。

 これからも日本語学校はいろんな問題にぶつかったり、頭を痛めたりすることもあるでしょう。でもみんなで知恵を出し合えば必ず道が開けます。今までそうやってここまで来たのです。同じように日本語学校では、たくさんの楽しいことや達成感をわかち合えることがあるでしょう。それは子どもたちにはもちろんのこと、父母や教師にとってもとてもうれしいことです。きっとこれからもそうやって末ながく進んでいくことでしょう。

 

エドモントン補習校の皆様

中野 早苗

 4年ほど前、アルバータ州のある大会の作曲部門で一等を取ったことがありました。音楽の才能なんてもともとないと思っていた私がこれをきっかけに目覚めるかも?と思い込み、よし、音楽にもどろうかな、と考えていたら大木校長からのメールで、「これをきっかけに日本語学校の教師を辞めるなんていわないように。」と、その時ずばり私の考えを読み取られてしまいました。と言う事でこれまでずっと日本語指導に携わってきたわけですが、やはり、経験が積もれば積もるほど指導に対して自信と満足感が出てくるものですね、本当に今まで教えてきて良かったと思う今日この頃です。

 困った時に、校長や他の先生方に助けられ精神的な支えになってもらったこと、この場をかりて深く感謝いたします。教える事は好きなので今後もずっと日本語指導を続けられたら、という気持ちが無きにしもあらずなのですが、このままでは日本語学校の指導に力を入れる事が出来なくなり、そうなると学校や保護者の方々に大変なご迷惑をかけてしまう事になる恐れを感じ、残念ながら4月からの教員を辞退する結果となりました。

 ピアノ指導を続けながら演奏の勉強を始めるようになり、専門である音楽を心を落ち着けて聴くことが出来ない歯がゆさが自分の心をどんどん不安にしていました。主婦業はもちろん、子育て、音楽指導、日本語指導、主人の会社経営、そして自分の勉強と、一時は睡眠不足で、そこにピアノ演奏や勉強会が入ってくるとプレッシャーやストレスもかなりありました。日本語学校での指導では、週に一回とはいえ、保護者の方にはなかなか見えない多忙な仕事の量と心配事がいつも重なり合い、3時間の授業時間以外にも長い時間を費やしてしまう事が沢山ありました。その割には、体重が減らなかったのはなぜだろう?

 今年の新年会で、日本語学校の良いところを一つ書く問題が出されました。とっさに、「良いところより、いやな事しか思い出せなーい。」なんて事を言ってしまい、書いた言葉が「新年会」というほど私にとって日本語学校の教師としての責任は、大変なものがありました。いろいろなことがありましたが、なんとか最後の授業を気持ちよく終わらせることが出来て、ほっとしました。前年度の小学二年では、音読発表を3月に行いました。沢山の方々が生徒の音読発表を聞きに来てくださった事本当に嬉しく思いました。常田校長をはじめ、来てくださった父兄の方にお礼を申し上げます。常田先生との会話でこんな私でも学校の役に立った事を聞き、また田端先生に二年生を引き継いでいただけることができ、これで指導の場を安心して引き下がる事が出来ました。今後は、日本語学校で得た経験をばねにしてまた一歩前進していきたいと思います。今までにいただいた皆様の温かなご支援本当に有難うございました。

 今年度より新しい組織で成り立つ日本語学校が子供達の日本語教育を中心に保護者、教師、そして子供達それぞれが今まで以上の助け合いの場となることを願っております。

 

バーバパパ

川本 紀子

 私の子供たちはバーバパパの本が大好きです。私が子供だった頃も読んだ記憶があると思ったら、なるほど初刊は1972年でした。バーバパパとは、フランス語でわたあめのことだそうです。
 バーバパパはフランソワの家の庭に生まれますが、大きすぎるために動物園へ連れて行かれます。そこでバーバパパはお友達を作ろうとしますが、なかなかうまくはゆかず、結局動物園を追い出されてしまいます。最後には心がやさしく勇敢なバーバパパは大好きなフランソワと再び一緒に暮らすことができます。
 子供達は自由自在に姿を変えられるバーバパパに興味を持ちます。そして、お友達を作ろうとがんばっているのにうまくいかない場面では、毎回型にはまったように顔をしかめ納得のいかないような表情を見せるのです。自分を受け入れてもらいたいと想うこと、それにもかかわらず、拒絶され孤独を感じることは幼い子供にも経験のあることです。子供達はいつも自分を理解されていたいのです。時折長女は、「さーちゃんとたろうちゃんとどっちが好き?」とか、「1番から順番に好きな子を言ってみて!」などと、私に問いかけます。私はそのたびに長女の耳元で小さく「さーちゃんが1番!でも、たろうちゃんにないしょね!」と言います。(心がけるようにしています。)時には、彼女がそんな事を言うのは私の愛情が足りないのだろうかと危惧したりもします。確かに、長女が大きくなるにつれて手も離れ、彼女に対しての接し方が変わっていったのは事実ですが、彼女への愛情そのものは何も変わってないつもりです。それでも彼女にとっては疎外されているように感じることもあるのかもしれません。だんだん外に目を向けていく長女を丁度良い距離から見守ることが大事なのでしょうが、その加減ってなかなか難しいのです。
 話を戻し、「おばけのバーバパパ」の次は「バーバパパたびにでる」が続きます。(個人的にはこのお話が一番好きなのですが)何か大事なものが欠けているバーバパパに必要なのは、バーバママだとお医者さんに言われバーバパパは世界中、果ては宇宙まで旅をしてバーバママを探しに行きます。しかし、バーバママはどこにもいないのです。諦めて家へ帰ると、なんとバーバママはバーバパパの家の庭にいたのです。苦労してはるか遠くまで探しに行ったのに探していたものは自分のすぐ近くにあったなんて、案外人生においてもそんなものなのかもしれません。
 ところで、バーバの子供達がどうやって生まれたか知っていますか?春になり、バーバパパとバーバママは庭に7つのたまごをうめました。そして何週間も水をやり、わくわくして待っているとバーバのかわいい赤ちゃん達が土の中から出てきたのです。
 機会があったら、是非バーバパパの本をお子さんに読んであげてください。

 

娘の宿題?私の宿題!

近藤 玲

 2005年4月、年中組に入学した長女のゆり愛。初めての夏休みの宿題が終わらなかった。ああああーーーー。

 ゆり愛は2000年7月22日、830gで生まれた。片手にのるほどの大きさである。妊娠中毒症による早産だった。方向感覚がなくなり、真っすぐ歩けなくなるのがわかった。そして、そのまま気を失った。今でもその感覚をはっきりと覚えている。けれども記憶は途切れ途切れで、旦那のことを「この人を知っているか?」と聞かれ、「知らない」と答えたそうである。もちろん、その事を聞かれたことすら覚えていないのであるが。後で妊娠中毒症について調べてみると、全身に痙攣を起こすのは稀で、(というのも、定期健診で妊娠中毒症の症状を早期発見できるため、未然に防げるから)母子ともに生命の危機にさらされる、とあるではないか。初めての妊娠。海外での出産。その上、緊急帝王切開による早産。何もかも初めてで、戸惑いと不安の連続だった。けれども、あの頃は今以上に若かったわけで、いつも何とかなると思っていたし、がむしゃらにもがんばってきた。また、うちの子に限ってと根拠のない自信もあった。若さゆえに、慎重になり過ぎず、精神的不安定にならなかったからこそ、今は相談する相手や愚痴をこぼす相手もいるが、当時、誰も頼る人がいない異国の地でなんとか困難を乗り越えてこられたのだと、今振り返れば思う。それに、超低体重児に関する無知がゆえに、今後起こりえる合併症や、後遺症に対する不安がなかったこともかえって良かったのかもしれない。そして、幸運にも特に異常もなく、娘はすくすくと育ってくれた。小粒ながらも毎年ズボンの丈が短くなっているのを見て、ああ、この子なりに成長しているのだとうれしく思っている。

 2人目もでき、子育てに追われてあっという間に過ぎた3年。3歳の定期健診で、問題を解決する力や言語の発達が少し遅いと診断された。幸いにも専門のプログラムに通え、作業療法士と毎月1回1時間一対一で指先を使う訓練や英語で名前を書く練習もした。その甲斐あって、4月には線がなぞれたり、点と点が結べるようになったが、それでも丸、三角、四角を自分で書くことは難しかった。まして、字を見て、自分でまねてそれを書くことはもってのほかだった。だから、毎週出る宿題も1日1枚が精一杯で毎日が宿題との戦いだった。1、2、3、と書き順を教えても、それを全く呑み込めない娘に苛立ちもしたが、毎週毎週、何とか宿題をこなしてきた。

 そして、待ちに待った夏休み!宿題もいっぱいで、(例年よりすごく少なかったようだが)私も、子供の頃もらった真新しい夏休み帳を手にしたようにウキウキした。が、それと同時に責任の重さを感じた。というのも、宿題を全部終わらせることができるかどうかは、娘次第ではなく私、つまり親次第であるということがわかっていたからだ。私が子供だった頃を振り返ると、小学校時代の夏休み帳は8月31日まで泣きながらやっていた。(終わらせたかどうかは疑問が残る)自由研究が一番最後まで残ったのは言うまでもない。高校時代のテスト勉強は一夜漬け。さらに、大学時代のレポートも追い込まれないとなかなか始められず結局徹夜。海外旅行の荷造りや引越しの荷造りまでも徹夜で当日の朝までかかり、母親にあきれられた。(実はこの原稿も早々と仕上げた友人に比べ、締め切りぎりぎりを目指し、ひいひい言っている私。果たして無事に仕上げられるだろうか?)特に子供が生まれてから荷造りだけでなく、日常の家事も思うようにはかどらず困ったことを忘れていたわけではないが、最後の追い込みが娘の宿題にまできくと思ったのが間違いの始まりだった。

 やる気満々の初めの1カ月、毎日欠かさず宿題をした。日記も家計簿も1カ月続かない私にしてみれば、すごくがんばった。もちろん、ゆり愛ががんばった。しかし案の定、何でも長続きしない私はしなくなった。娘が宿題をしなくなったのだが、娘は私が「宿題をしよう」と声をかければ、喜んでとびついてきた。時には、自分から「宿題をしたい」とも言った。だから、娘が宿題をしなくなったのは私のせいなのだ。気付いてみれば8月の末、そろそろ宿題をやり始めなければ、さすがにまずいと思った。それでも、2学期が始まる前の2週間があれば、余裕で宿題を終わらせることができると思っていた。それからというもの、毎日欠かさずがんばった。もちろん、ゆり愛ががんばった。けれども、結局宿題が終わらなかった。ああああーーーー。

 2006年4月、年長組に進級したゆり愛。名前を立派に書けるようになった。今年は、去年よりもっと多いと予想される夏休みの宿題を無事に終わらせることができるだろうか?9月から現地校で小学1年生になるゆり愛。毎日宿題をする時間があるだろうか。毎週、毎週宿題をこなすことができるだろうか?答えはわかっている。すべては私、親にかかっているのだ。ゆり愛は私の罵声にもかかわらず、いつも一生懸命にがんばっているのだから。

 

わすれんぼう大将

渡辺 京子

 人間の記憶というものは不思議だ。脳の中に蓄積されているのだろうが、一体どうなっているのか。脳の「海馬」という場所が蓄積場所であるらしいと本で読んだが、私の「海馬」には、この本の内容はあまり残っていない。

 ところで、最近、物忘れが激しい。たとえば、冷蔵庫を開いて、思う。Aがない。ベースメントの冷凍庫にあるはずだ。取りに行く。冷凍庫を開く。はて、何を取りに来たのだろう。冷凍庫を閉じて、再度、階段を上がり、冷蔵庫を再度開き、思い出すのである。今度は唱えながら階下に戻り、Aを取って階段を上がりながら、情けないため息をつくのである。

 しかし、考えてみると、物忘れは最近始まったものではなさそうだ。まだ、若かりしころ(といっても、相対的に若かったわけで、絶対的ではない。)、会社の狭い自転車置き場で自分の自転車が無くなっているのに気づいた。盗まれた、と思った。警察に届けねば、新しいのを買わねば、と頭の中をこれからのやるべきことが駆け抜けた。そして、思い出した。朝、郵便局に自転車で行ったことを。また、そのあと歩いて帰ったことも。自転車は、郵便局の前で私をけなげに待っていた。

 一方、うちの息子を見ていると、彼の「海馬」は、超小型でないのかと思うことがある。毎日毎日、同じことを注意しても、毎日毎日、同じことをする。朝方、部屋をみると、パジャマもタオルも床に散らかり、ライトはついたまま。

「パジャマを掛けて、タオルはバスルームにもって行って、ライトは消しなさい。」

数分後、部屋をみると、パジャマは掛けてあるが、タオルは床に、ライトは消えている。

「タオルがまだ、床にあるじゃない。」

また、数分後、タオルは無くなったが、ライトは再びつけられていた。

 加えて、よく忘れることがトイレを流すこと、である。友人宅にお泊りに行く日、心配した私は、手に「トイレを流す」と日本語で書くように指示をした。が、案の定、手のひらには英語で「フラッシュ」。「人に読まれないように日本語で、と言ったじゃないの。」「あ、忘れてた。」

翌日、帰ってきた息子に聞いた。「手に書いてたの、ちゃんと見た?」「あ、忘れてた。」

「ちゃんと、トイレは流したの?」「うーん、忘れた。」

彼の海馬には、三個以上の記憶の蓄積はできないのだろうか。かと思うと、コンピュータゲームや、たまごっちの使い方はあっという間に覚えてしまい、決して忘れないのである。この優秀な記憶力をできれば漢字の記憶に当ててもらいたいと思うが、うまくいかないものである。

 

日本語学校の魅力

ラムジー 妙子

 私が日本語学校のことを知ったのは、息子が小学2年生のときでした。会社の上司から日本の本を借りられるところがあると聞いたのです。今から15年前のことです。我が家は家庭内では主人がいれば英語が中心になっています。

 エドモントン国際空港から南へ車で20分のところにあるミレットに住んで以来、それまであまり日本人の人と話をする機会がありませんでした。息子は3歳ごろまでは、私と日本語で話していましたが、4歳になって保育園に行くようになって、人前で私と日本語を話すことが恥ずかしくなったようです。 毎晩日本の本を読んでやっていましたが、読み書きを教えたくても反抗期なのか私には息子に字を覚えさせることができませんでした。

 日本語学校の幼稚科に入ったとき息子はカナダの学校では小学二年生でした。その時になって息子が私に言ったことは、「お母さん、何でぼくに日本語の読み書きを教えてくれなかったの?」という言葉でした。私は、初めての子供なので子育てもわからず、教えたくても教えることができなかった自分を情けなく思ったものです。そして毎週金曜日の夜、日本語学校に通い始めました。娘も生まれ哺乳瓶を片手に多くの父兄の方々とおしゃべりをしながら、日本語を学ぶ上でいかに環境が大切であるか痛感しました。その当時は今と比べて帰国子女も多く、せっかく子供に友達ができたと思ったら日本に帰国されるケースがかなりありました。仲のいい友達に頼んで日本のビデオを送ってもらい、日本の番組を常に見せるようにしました。

 息子が五年生の時、カナダの学校では中学生でした。息子はギターに興味を持ち始め、6年間いやいや通った日本語学校を辞めました。その開放感もあってか友達とバンドを一緒に作って詩や曲作りに没頭しはじめました。高校生になって空港でバイトをして、いかに語学が大切であるか本人も身をもって体験したようです。

 一方、娘には、とにかく小学6年生までは、日本語学校を続けるようにと話しました。ともすれば、上の子が学校を辞めたために本人も日本語学校を辞めたくて辞めたくて 仕方がなかったようです。中学になればなるほど英語の学校の宿題も多くなってきます。まして中学生の国語ともなれば難しい漢字が多く出てきます。先生方にはご心配をおかけし本当に申し訳なく思っております。おかげさまで先日娘は中学校3年生を終了することができました。

 日本語学校の後はとてもおなかがすくので子供の行きたいレストランに連れて行きました。家に帰ればフライデーナイト、親子で日本のビデオを見て開放感に浸りました。

 日本語学校に通わなければ日本語で親子の会話ができなかったと思います。ましていっしょに大河ドラマなど親子で見ることもなかったでしょう。

先生方には言葉で言い尽くせないほど感謝の気持ちでいっぱいです。この紙面を借りてお礼を申し上げます。

 

 

 

A Gaijin Perspective

Steve Hill

 

I was asked to write an article for the Annual Report. What can I write (in English) that is relevant?

 

IÕm not Japanese. I canÕt speak Japanese. To be truthful, it is disappointing that after sixteen years with Atsuko that I am still illiterate in Japanese. All I can say is konnichiwa, arigato and Motto Biiru kudasai.

 

Except for natto, I quite enjoy Japanese food. People say IÕm good with ohashi, but I expect theyÕre being polite. Japanese culture and art attract me. I appreciate fine pottery, ikebana and lacquer. Sumo is fun to watch as are festivals like obon and omatsuri. I can easily relax for an afternoon soaking in the onsen. Castles, Buddhist temples, Shinto shrines and Zen gardens all captivate my inner spirit. A gracious tea master makes me feel like IÕm sipping the subtle, ancient wisdom of Japanese culture. I especially love the beautiful nature, mountains, valleys and ocean.

 

Yet there is another aspect to visiting Japan. While I have an immense attraction to the people, the culture and the land, and while the Japanese have shown me generous hospitality, I also experience a distance and loneliness mainly because I cannot speak the language. And many English-speaking Japanese are too shy to speak English for fear of making a mistake. 

 

In Edmonton, when I visit the Japanese School, of course it is a Japanese-speaking community. There are many nice and interesting people. But, again, I am an outsider because I canÕt join in the conversation. Perhaps Japanese sometimes feel like that in English-speaking Canada.

 

Japanese illiteracy is a big limitation for me.

 

ThatÔs why I hoped things would be different for my son, Keita. Thanks to our family and some dedicated teachers, Keita attended grade five in Japan, learning Japanese from scratch. It was not easy for him in a different culture and way of education. It was hard being the weakest student. It took lots of guts, patience and humble pie. Many people said it was a waste of effort because he would forget Japanese when he came back to Canada. That was my fear, too.

 

However, thanks to the Japanese School and our Japanese friends in Edmonton, Keita has the chance to practice Japanese. It is not the same as living everyday in Japan, but it sure helps. Keita says he paid too big a price learning Japanese to lose it now.

 

I am happy for Keita that he is culturally amphibious. Now he can live in both Canadian and Japanese culture. Thanks to English and Japanese literacy, Keita has a promising future. What a gift!

 

But more important than my son enjoying a nice future just for himself, I think the future of the planet depends in no small measure on building bridges of communication, mutual respect and friendship among the different races that make up the one human family. KeitaÕs pride about his British and Japanese ancestry is a little sign of hope in a world hungering for racial tolerance and global peace.

 

No organization exists without the effort of dedicated individuals. The retirement of Ohki sensei reminded me that Metro Edmonton Japanese Community School exists today because for the past twenty-nine years people believed in the value of its existence. We owe a debt of gratitude to the numerous individuals who overcame the challenges of creating and maintaining the School for almost three decades. The 30th anniversary next year will be a good cause for celebration.

 

Thank you to the Principal, Board, Teachers and families. Though it is hard for me to communicate and be friends with you, I am sincerely grateful that you value keeping alive the Japanese language and culture in Canada.

 

Ganbatte kudasai!


 

                                        

                     

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★ 発 行 ★

エドモントン地区日本人コミュニティスクール後援会

会長 大沢 誠

200月発行

 

 連絡先 

Makoto Osawa

45 Fairway Drive

Edmonton, Alberta

Canada  T6J 2C2

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